リルヤモが残してくれたもの
オフィス兼生活空間として借りているアパート。
私が滞在するようになって2か月、小さなヤモリも暮らし始めていました。
目をクリクリとさせ、一生懸命足を動かして床をはう姿が何とも愛らしく、時にはシャワーで、時にはキッチンで、その小さな体で息をし、近くで顔をのぞきこむとビックリして狂ったようにバタバタッと走る。
最近は背中を撫でても驚かず、ヤモリなのに壁をつたうのが下手なのか、必ず床を歩き、ちょこまかと居場所を探して動き周っては、毎日そのかわいい姿を見せてくれました。
そんなヤモリを私は「Lil’ Yamo=リルヤモ」と名づけ、いつしか、帰宅すればいつもそこにいる、恋人のような存在となっていました。
そんなある日、いつものように帰宅すると、リルヤモはシャワーの扉の前にいました。
「ヤモ~、ここに居た… ヤモ…?」
何かが違うと感じ、近づくと、リルヤモは仰向けになって死んでいました。
小さな後ろ足を交差させ、すでに体は乾燥し始めていて、それはヤモの命の営みが止まってからしばらく時間が経っていることを意味しました。
私は一瞬にして心にとげが刺さったようなショックを受け、悲しくて、寂しくて、しばらく涙が止まりませんでした。そして固くなったリルヤモをそっと持ち上げ、小さな小さな足を床につけ、苦しそうな体制を直してあげました。
せめて土にかえしてあげようと思い、ケニアの友人に話すと「ヤモリ『ごとき』にそんな」と驚かれました。こちらでは、ヤモリは家を守るという伝えはありません。
死んでいるのを見つけたら、ティッシュにくるんで捨てるだけ。
おかしな日本人だと思われても構わない。
私は、家の裏手に周る小道の草の根本に、リルヤモの小さなお墓を作ってあげました。
赤土が乳白色のヤモの体を覆い、私は心の中で拝みながら、ヤモが懸命に生きる姿を思い出していました。
(リルヤモが眠る場所。雨季で緑が茂ってきた)
いくら壁を歩くのが苦手なヤモリでも、ひっくり返って命を引き取るって…。
滑って転んだわけでも、壁から落ちたわけでもないでしょう。
何か、リルヤモが意味していることがあるように思えてなりませんでした。
工房に通うようになって3か月。
難しい状況や課題が山積し、工房では作業、帰宅してからはパソコン、日本との時差で朝起きればメールの返信。
四六時中仕事をし、私の疲れも日々積み上がり、ちょっと気力が落ちていました。
リルヤモは、そんな私の姿を見ながら「これからも大変だよ、でも、ひとり立ちするんだよ、がんばるんだよ」と、その小さな命と引き換えに、私に力を与えてくれたのではなかっただろうか。そんな風に思えてなりませんでした。
命あるものには、命の終わりがある。
ヤモがヤモとして存在した、そのことに感謝をしつつ、私自身も命ある限り、自分として存在し続けることを、この土地で改めて考えさせられています。
(生産担当:マリナ)