2秒の作業に見る、価値観の違い
慌ただしい3週間の一時帰国を終え、眠りこけたドーハ行きの飛行機から、現在ケニアに向かう機内でこれを書いています。
私がアンバーアワーに入ってから、ずっと抱えていた課題がありました。
それは、商品として求められるていねいさ、仕上げの美しさについて、思うように伝えられないこと。主力商品であるブックカバーを見ながら、私は久しぶりに再会した日本の友人にその悩みを吐露していました。
友人は話を聞きながら、日本は物事の終わりや、その終わり方に一種の価値を置くような風土があるように思える、と言いました。
例えば花が散るはかなさや、去り際の潔さや、有終の美と表現されるように、何かが終わることに対してひとつの美的感覚がある、と。学校生活でも、みなで掃除をしてきれいにしてから下校したり、仕事もきりのいいところまでやっていったり、一本締めで会を閉じることも特徴的な行動です。
確かに、この感覚に対して日本はひときわ敏感かもしれません。
例えばサイザルを織り機で織るとき。
緯糸(よこいと)を通して、カンカンと打ち込むことでひと織りとなり、私の感覚で言えば、そこまででひと作業。きりがよくて気持ちいい感じがあります。
(緯糸を通したこの状態で帰宅)
が、織り子さんは緯糸を通しただけの状態でも、5時になるとそこでやめて帰る。あと2秒、カンカンってやっちゃえばいいのに…。
しかしこの2秒の感覚の違いは、それぞれの歴史や土地に根付いてきた、大きな在り方の違いのようです。
日本が「終」である一方、これはケニアに限らず「黒人文化」に共通しますが、彼らは強い「生み」のエネルギーを持っているように見えます。
例えばアメリカに連れられた奴隷たちが、労働の苦労を紛らわせるために歌ったことがブルースの起源であったり、カポエイラはアフリカの土着格闘技を基に、その使用を禁止された奴隷たちの間で踊りと見せかけて練習をしていたことが、今の動きにつながっているといいます。
この「生」を基盤にした感覚に、ケニアには爆発的に何かが起こるような強い力を感じていて、しかしこれをイノベーションとかポテンシャルとかいうイマドキの言葉にしてしまうと、突然「先進国的」なアフリカの見方に付きまとわれる感じがし、違和感を覚えるのです。
虐げられた歴史の中においても、決して奪われなかった本質、ソウルに宿る四の五の言わせない輪郭のはっきりさ。毎日工房で悩みながらも、私にはこれが生みのエネルギーの根源であるように思え、そしてこのゆえない魅力に映ります。
人間発祥の地もアフリカ。
「生」にエネルギーがある文化の質感と、「終」に重きを置く日本文化の質感。
とすると、私が加工の仕上げに美しさを求めることは、単にセールスやマーケティング視点というよりは、もはや本質的に避けられない質なのだと、何だかスッと腑に落ちる感覚があります。
決して商品改良への悩みが解決したわけではないけれど、新たな視点を得て、少し言葉になってくると、かかわり方もまた変われるように思います。
一時帰国の3週間で得たものは、おいしいものの食べ過ぎでついた脂肪だけではなく、相手の動きをきちんと見て、自分がどう感じて、どう動くかを知ること。
「生」と「終」、異なる質感を融合させると、次は何が生まれるだろうか。その思いを持って、今、新たな気持ちでケニアに戻ろうとしています。
(生産担当:マリナ@ドーハ上空)